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​東京新聞2024年9月24日の記事より

ソフトテニスの発祥は140年前の東京だった「教員の卵たち」が広め、学校から世界へ 

<スポーツ探偵>2024年9月24日 12時00分

 東京新聞は25日、創刊140周年を迎える。1884(明治17)年9月25日に新橋で発刊された「今日新聞」を第1号とする。ところで、スポーツの世界に東京新聞と「同級生」がいるのをご存じだろうか。今回は140周年記念の特別版をお届けしたい。

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我国ゴム工業誕生の地.jpg

「我国ゴム工業誕生の地」の記念碑が立つ三田土ゴム跡地=台東区上野で
 

テニスラケットを手に、和装で写真に納まる女子学生=
1903年撮影、学校法人山陽学園提供

 

◆生みの親は「日本最初の体育教師」

 ちょうど140年前、東京で産声を上げたスポーツがある。名をソフトテニスという。1992年まで「軟式テニス」と呼ばれたこの競技は1884年、日本で最初の体操教師・坪井玄道が、神田区(現在の千代田区)の体操伝習所で学生に手ほどきをしたのがきっかけだと「日本庭球史―軟庭百年―」に記されている。

 わが国へのテニスの伝来については、「横浜山手説」「長崎グラバー邸付近説」など、諸説あるが、明治の初期に外国人によって伝えられたのは間違いないだろう。ラケットでボールを打ち合う未知の競技を見て興味を抱く日本人は多かったが、一つ難点があった。

 ボールが高価だったのである。当時の道具は輸入品。特にボールは消耗品なので、定期的に購入しなければならない。このころの硬式球はフェルトやフランネルの生地で表面を覆う加工が施され、国産化も難しかった。そこで安価なゴム球で代用し、テニスができないかと考える人たちが現れた。軟式テニスの始まりである。

 前出の坪井は、体操伝習所が東京高等師範学校(現筑波大)に併合されたこともあり、ゴム球テニスの普及に力を注いだ。折しも、明治維新の混乱が収まり、国を挙げて工業化を進めようという時代。坪井は上野の三田土(みたつち)ゴムに軟式専用ボールの製造を依頼。試行錯誤の末に「赤Mボール」を作り上げた。三田土ゴムの跡地には現在、「我国ゴム工業発祥の地」の記念碑が立っている。

◆負担が少なく、ハイカラな女子学生も楽しむ

 さて、坪井の指導もあり、軟式テニスは東京高師で大流行した。そして、それを見ていた他校にも広がっていった。初の公式戦は1898(明治31)年。東京高師と高等商業学校(現一橋大)が対戦し、東京高師が勝っている。

 女子学生のプレーヤーもいた。ゴム球を打つのはそれほど力がいらないこともあり、自由におしゃれな格好で楽しむ人が出てきた。岡山県の山陽学園には、1903(明治36)年撮影の和装のテニス写真が残る。ハイカラな競技は大正デモクラシー前のこの時期、人々の心を虜(とりこ)にしたようだ。

◆「2040年までに五輪種目になることが目標」

 ところで、皆さんの中には、小中学校の授業や部活動で軟式テニスを楽しんだという方は多いのではなかろうか。その理由がここにある。東京高師は教員を養成する学校。生徒は卒業すると、全国に先生として赴任していった。だから、軟式テニスは学校を中心に日本中に広まった。

 日本ソフトテニス連盟副会長の清水諭さん(63)によると、現在の競技人口は中学生年代を中心に約34万人。「軟らかいボールを打つので、小・中学生の初心者でも身体的な負荷がかかりません。他の競技に比べてけがが少なく、80代まで楽しめる生涯スポーツとしても人気です」と魅力を語る。

 積極的に国際化も進めており、アジア大会の競技種目に入っている他、32カ国・地域が参加する世界大会も行われているが、「全世代が夢と感動を持てるスポーツを目指して、2040年までにオリンピックに参入することを目標に掲げています」(清水さん)というから、夢は大きい。

 

ちなみに、同様に今年140周年を迎えるのは、他にも高崎駅、三ツ矢サイダー、商船三井、三菱重工、古河電工、聘珍樓(へいちんろう)、東洋英和女学院などがある。明治から大正、昭和、平成、令和と歩みを共にしてきた友人がこんなにいたとは心強い。

 ◆文と写真・谷野哲郎

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